2014年3月30日日曜日

為替の大福餅 ドル円の過去を散策 その5 ≪円高阻止の日米協調介入≫

円高阻止の日米協調介入」

日米の協調介入は、ドル円の為替レートが180円、160円台と急速な円高になり、本邦輸出企業の採算が悪化し、円高不況の懸念が現実化しつつあったことが背景にありました。日米の通貨当局はドル円でドル買い強調介入を実施したのですが、ドル円は一時150円の大台を割り込み下落し、成果は乏しく円高を止めることはできませんでした。

日本銀行のドル買い介入金額は、「日米協調介入」と「ルーブル合意」を合わせ推定で、1986年~871月の間で合計4.3兆円=約258億ドルと見られ、19861月から872月までで公定歩合を4.5%から2.5%まで計5回引き下げ引き下、さらには円高対策として6兆円の緊急経済対策を実施したのでした。

この、超低金利・超積極財政支出が、かの有名な日本のバブルを引き起こし、さらには歴史的なバブル崩壊へのスタートとなったのです。

私の独断と偏見で言わせていただければ、この「日米協調介入」により、日本の外貨準備高が膨張し、米財務省証券の購入に振り向けられた結果、米国の金利は安定したと言っても過言ではないと思います。後の、ドル円の為替レートの急落により資産価値が低下したにもかかわらず、塩漬けされ売却することのできないドルの外貨準備は、長期間保有されていたと推測されます。

かつて、橋本首相が「米国債の売却をしたいとの思惑に駆られる」と発言し、米国債の暴落を招き、米国の逆鱗に触れたことはあまりにも有名です。事実確認はもちろんありませんが、米国政府から日本政府に何らかのプレッシャーを受けたことは否定できず、後に、米国債売却を公の場で口にする政治家の発言は記憶にありません。

民間企業でも、国策とも思われる積極的な外債投資政策により、本邦機関投資家が米国債への投資を拡大させ、外国企業の買収や、海外不動産投資を拡大させ、事実上はドル円の買いポジションを膨らませたことになります。後の、米財務省のドル安政策による円高で、その資産価値が半減し、本邦機関投資家の凋落の一因となったこと推測することができます。そして、これらの動きを歴史的事実として受け止めておく必要があります。


ドル安の影響は、日米2国間だけに留まらず、世界の主要国でもドル安が加速したのですが、大幅な為替レート調整にもかかわらず、主要先進国間の不均衡是正は緩慢で、しだいにドル安一辺倒の為替レートのみによる不均衡調整に対して疑問が生じるようになってきました。

2014年3月29日土曜日

為替の大福餅 ドル円の過去を散策 その4 ≪プラザ合意≫

「プラザ合意」
19859月のことですが、ベーカー米財務長官の要請により、NYのプラザホテルで会議が開かれ、ドル高是正の協調介入と政策協調に乗り出すことで合意しました。開催されたホテルの名にちなんで「プラザ合意」と呼ばれる事になるこの会議には、米国・日本・ドイツ・イギリス・フランスの蔵相(財務相)と中銀総裁が参加し、当時の総理大臣は中曽根康弘氏で、日本からは竹下大蔵大臣と澄田日銀総裁が出席したことは今でも有名です。

当時の新聞報道では、竹下蔵相は千葉にゴルフにいくと家を出て成田空港へ直行し、澄田智日銀総裁は風邪を理由に予定していたゴルフをキャンセルし、マスク姿で成田空港へ直行し、共に一路NYへ向かったとあり、マスコミに察知されないように、極秘に話を進めていたことが推測されます。

現在ではよく耳にするG7ですが、当時はG5(先進5カ国の蔵相・中銀総裁会議)と呼ばれており、これらの国際会議が一般的に知られるようになったのもこのプラザ会議からでした。

922日にプラザ合意の共同声明が発表されましたが、声明文の真意を理解することは昔も今も難しく、何を意味し何が必要なのか、歴史書みたいなものですからよく検証して下さい。

「声明分の抜粋」
1.「対外ポジションには、潜在的に問題となりうる大きな不均衡」があるが、これは広範な要因を反映したものである。米国の相対的に極めて高い成長期が原因となっている対外ポジションの悪化は、いくつかの主要開発途上国の経済困難及び調整努力が米国の経常収支に与え、特に大きな影響は、いくつかの市場における貿易アクセスの困難さ、及び米ドルの上昇などである。

これらの要因(相対的成長率、開発途上国の債務問題及び為替レートの状況)の相互作用が、主要先進国間の大きく、潜在的に不安定材料となりうる対外不均衡に寄与した。特に、米国は、大きくかつ増大する経常収支赤字を有し、日本及びより低い水準ではあるがドイツは、大きくかつ増大する経常収支黒字を有している。

米国の経常収支赤字は、現在、他の要因とともに保護主義圧力に寄与しており、これに抵抗しない場合、世界経済に重大な損害を及ぼす相互破壊的報復へとつながりうる。すなわち、世界貿易は縮小し、実質成長率はマイナスにすらなり、失業が更に増加し、債務負担を抱える開発途上国は、必要不可欠な輸出収入を確保できなくなろう。

「プラザ合意を検証」
それでは何故このような会合が必要だったかを検証してみましょう。悪いことに、米国はロシアと冷戦状態に入り軍事費が拡大し、財政赤字が膨らみ「債務超過」に陥ってしまった→ インフレ抑制と、海外から借金依存体質で「高金利政策」を維持せねばならない→ 高金利で「ドル高」が止まらない→ ドル高で「米輸出企業の競争力が無く」日本に負けて商売にならない→ 「米議会から不満続出」で何とかせねばならない状況が続いていたのでした。

一方の欧州各国は、米国の高金利政策の影響で、高金利を維持するする必要がありながら、高金利の悪影響を危惧し、「金利を下げてくれるなら日本の円の価値が大幅に上昇しようが、自国通貨の価値が多少上がろうが関係ないだろう」。まあ、このような状況だったと思われます。つまり、ドルの価値を下げ=円の価値を上げることで米国の輸出競争力を高め、米貿易赤字を減らす合意が「プラザ合意」と極論しても間違いではないと思います。

米国は対日貿易赤字の是正を目的に、対外不均衡是正のお題目を唱えて、ドル安政策を実施したのですが、後のG10
G20などで、「一部のアジア諸国へ求めた不均衡是正」と同じお題目であったことを考えれば、国・経済規模の相違はあるものの、過去と同じことを繰り返していることもある意味では歴史的な事実でしょう。

「行動内容」
それではどのような行動を実施したのでしょうか。具体的には、「G5の通貨を一律1012%幅で切り上げる(ドルを切り下げる)」、「協調介入の期間は6週間」、「介入規模は総額で180億ドル」などの目標を設定したのでした。924日から東京市場で大量のドル売り・円買いを実行し、ドイツのブンデスバンク(ドイツ中銀)、フランスのバンコ・デ・フランス(フランス中銀)、イタリアのバンカ・デ・イタリアーナ(イタリア中銀)、英国のバンク・オブ・イングランド(英国中銀)、そしてアメリカのフェデラル・リザーブ・バンク・オブ・ニューヨーク(米国の介入執行連銀)が連続して協調し、ドル売り介入を実施したのでした。

「円高は止まらず」
当時のドル円は240円でしたので、最大目標とした12%円高は28.8円で計算上は210円程度となるべきでした。実際には、このような小幅な円高に留まらず、竹下大蔵大臣が「ドル円は190円でもかまわない」と発言したことで、市場はドル円190円を目標にドル売りの攻勢をかけたのです。


しかし、ドル円は190円でもドル売りの流れは止まらず、1986年には180円を割り込む円高が進み、ついに、日米2国間で「竹下大蔵大臣・ベーカー米財務長官の合意」に基づきドル買い介入を実施したのですがドル安は止まらず、1987年に140円近くまで円高が進み、次の「ルーブル合意」で、ドル買い協調介入が実施されるまで続いたのでした。そして、歴史的にまれな日本経済の崩壊の原因となる「バブル景気」→「バブル崩壊」の基礎がここで作られたのです。

2014年3月28日金曜日

為替の大福餅 ドル円の過去を散策 その3 ≪カーター・ドル防衛とレーガノミクス≫

「カーター・ドル防衛」と「「レーガノミクス」

「カーター・ドル防衛」
日本は1973年からのオイルショックを克服し、1977年から円高が進み1978年には1ドル=174.37円と、360円の固定相場から半値近くまで円高が進行しました。流石にドルの価値が半値になると、米国側も危機感を示し、米国主導で大規模なドル買い介入を実施し、ドイツ・日本・スイスとも協調介入を実施、公定歩合の1%引き上げ、預金準備率の引き上げ、カーターボンドの発行など、ドル防衛策を打ち出したのでした。

また、この時期に始まった第二次オイルショックもドル買いに拍車をかけドル円は19804月には一時260円近くまで上昇したのですが、日本のファンダメンタルズの大幅改善、期を同じくして日本では1980年には新外為法施行され、為替取引は原則自由となり、ドル円相場は再び200円割れの水準まで円高が進みました。


「レーガノミクス」
最近は、「アベノミクス」が有名になっていますが、元祖は「レーガノミクス」で、1981年に就任したレーガン米大統領が採用した一連の自由主義経済政策のことです。大幅減税や軍事予算を急増させたため、財政赤字が拡大し米国は歴史的なできごととなる債務国に転落し、財政赤字を補填するために高金利政策が実施され、短期金利は20%台まで上昇しました。この高金利への投資のために海外の資金が米国に流入した結果、ドル円は198211月には一時278.09円まで上昇したのでした。

ドル高の弊害は米国企業の輸出競争量を低下させ、米国内の製造業団体からは日本企業・政府へ貿易黒字増加への不満が強まり、米国政府の強い要請により1983年には日米ドル委員会が発足され、日本の金融市場や資本市場の自由化と米金融機関による日本進出が始まったのでした。また、為替先物予約の実需原則が撤廃され、円転枠規制の撤廃などの金融自由化により、為替取引量が飛躍的に拡大していくのでした。

米国は超高金利政策によりインフレ沈静化の兆しが見え始めると、金利低下が始める一方、貿易赤字は拡大し、ドルへの魅力が薄れるに伴い、ドル円は240台近くまで下落し、次第にドルは不穏な動きが強まってくるのでした。


そして、有名な「プラザ合意」の道へと続いて進んで行くのでした。

2014年3月27日木曜日

為替の大福餅 ドル円の過去を散策 その2 ≪スミソニアン合意と変動相場制度への移行≫

「スミソニアン合意と変動相場制度への移行」

日本政府の必至のドル買い介入にもかかわらず、197112月に米国ワシントンDCのスミソニアン博物館で開催された、「スミソニアン合意」と呼ばれる多角的通貨調整の合意により、ドル円の変動幅の下限が360円→308円の円高方向へ切り上げられ、変動幅は301.70円~314.93円で維持することが決まりました。

当時の日本の状況は少し前の中国と似ており、1960年代の平均経済成長率は、米国=3%、欧州主要国=46%、日本=10%の成長を続け、ドル円は下限の308円近くの円高が続いたのでした。


イタリアが二重相場制度に移行したことを引き金に、通貨危機が再発し、ドルは10%再切り下げを実施、19732月には日本を含め先進国は変動相場制度に切り替へることを決め、翌3月にはドル円は254.45円まで下落、この間のドル買い介入は、膨大な損失となって跳ね返ってきたのでした。

2014年3月26日水曜日

為替の大福餅 ドル円の過去を散策 その1 ≪通貨ドルの崩壊≫

「通貨ドルの崩壊」


第二次世界大戦後の世界経済を支配した米国は、1960年~1975年までの15年の長きに渡り続いたベトナム戦争で、約58,000人が戦死し、約1,700機の航空機を失い、総額3,520億ドル相当の巨額な戦費を消耗したのでした。

この間、米国の金準備額は約2万トンから約8,500トンまで激減したことで、1946年の金本位体制で、調整可能な固定為替相場制度を採用した「ブレトン・ウッズ体制」から続いたドルと金の兌換に赤信号が燈ったのでした。

ヨーロッパ各国は米経済の破綻を先読みし、196711月には英国が自国通貨のポンド14.3%切り上げ、19698月にはフランスが、フランス・フランを11.1%、10月にドイツマルクが9.3%切り上げ、ドルから金に外貨準備のシフトを開始し、予防措置を取ったのでした。しかし、日本だけは輸出主導の経済政策を優先させることのみ配慮し、動く気配も見せず、1ドル=360円の固定為替制度を頑なに守り通したのでした。

1971815(昭和40)、ニクソン米大統領は、突然ドルと金の兌換停止を宣言しました。これは一般的に「ニクソン・ショック」と呼ばれ、ブレトン・ウッズ体制が終焉を意味します。これが結果的に、ドルの海外への流通を加速させ、「災い講じて福となす」の例え通り、戦後の世界経済の復興に重要な役割を担うことになったのですが、他方で米国の国際収支は極端に悪化し、ドル余剰に世界的なドル価値の低下がここからスタートしたのでした。

止せばいいのに、世界市場に先駆けて取引が始まる東京市場は、世界の主要国で市場閉鎖が予想される中、日本の通貨当局が取引を開始させ、世界中からのドル売り注文が殺到したのでした。日本政府主導の下で、816日~27日の2週間の間に渡り、1970年の外貨準備高は約32億ドルで、その約34%に相当する11億ドル(約3,960億円の巨額なドル買い介入を短期間で実施し、1ドル=360円を必死に守ろうと努力したのです。

20142月末時点の日本の外貨準備高は約1.29兆ドルですから、計算上34%は約3,794億ドル=現在の規模に言い換えれば約38.7兆円に相当し、膨大なドル買い/円売り介入であったことが想像できます。ちなみに最近の大規模介入は2011年の1031日の8.722兆円のドル買い・円売り介入で、ドル円は75円台から79円台まで上昇し、1031日~114日で計約9.09兆円の介入を実施しています。


その後3ヶ月間で30億ドルのドル買い介入が継続され、1ドル=360円を死守するためのドル買い介入の合計金額は70億ドルに達したといわれ、外貨準備は約146億ドルへと大幅に膨らんだのでしたが、19718月末には、ドル円は339.85円まで下落、9月末には335.35円まで下落、10月末には329.50円まで下落と、円高は止むことはありませんでした。