2014年5月21日水曜日

為替の大福餅 ドル円の過去を散策 その14 ≪ドル円当時の安値79.75円の道、1993年≫

「ドル円当時の安値79.75円の道、1993年」

19931月から時系列でみて見ましょう。当時の為替相場は、クリントン米新大統領とその側近による、米国貿易赤字削減を目指す、政治的な要因に基づき決定されたかよく分かると思います。もちろん、ここでは目に見えない米企業の圧力があったことは間違いないと個人的に考えています。

以下は、円高の動きを時系列順にまとめてみましたが、前回の話と重複する箇所がありますが容赦下さい。

19931月ドル円は123.94円で取引が開始。
1993120日 クリントン米大統領就任→ 対日貿易赤字の削減を目指す。
199329日 バーグステン国際経済研究所所長「ドル円100110円のまで円高誘導すべき」と発言。
1993211日 フォーリー米下院議長「クリントン政権は日本に円高政策を求める」と発言。
1993219日の週 ドル円124.54円から120円を割り込み118.15円まで下落、118.30円で越週。
1993219日 ベンツェン財務長官発言「一層の円高が望ましい」と発言。
199342日の週 ドル円117.20円を高値に113.50円まで下落、113.65円で越週。
1993416日 ワシントン日米首脳会談でクリントン大統領は「貿易不均衡の是正には円高が有効」と発言。
1993422  ドーンブッシュMIT教授は「1年後にドル円80円台が妥当」と発言→ 1995年に現実化する。
1993423日の週 ドル円117.70円を高値に110円を割り込み109.55円まで下落、110.65円で越週。
1993427  ベンツェン米財務長官「協調介入の用意がある」と発言→ ドル買い戻しが強まる。
1993427  サマーズ米財務次官「ドル円適正水準は110円程度」と発言、NY連銀はドル円で円売り市場介入実施。
1993430日の週 NY連銀の介入で、ドル円は安値109.23円から112.45円まで値を戻し、11115円で越週。
1993429  G7の共同声明で「為替相場の過度の変動は世界経済の成長にとって好ましくない」と表明。

このように、一度は円高を阻止するドル買い介入を実施しながらも、対日貿易赤字の削減が見られず、より強硬な態度となる動きが始まりました。

1993519  ブラウン商務長官「対日貿易赤字は為替調整で是正が必要」→ 再び円高圧力を強める。
1993521日の週 11192円を高値に110円台を割り込み109.95円まで下落、110.40円で越週。
1993525  米財務省報告書「円高が日本の経常黒字拡大を抑制」→ 円高政策へ転換の契機となる。
1993528日の週 110.80円を高値に106.85円まで下落、106.90円で越週。
199363  ベンツェン米財務長官「日本の対外黒字は世界経済の不安材料」→ OECDの会議で発言、世界各国に円高容認を求める。
1993618日の週 110.15円を高値に105円を割り込み104.80円まで下落、109.55円で越週。
1993630  ベンツェン米財務長官「円高圧力停止の見返りに日本に景気刺激策を要求」
199385  宮沢内閣総辞職。
199386日の週 105.30円を高値に103.85円まで下落、104.40円で越週。
199386日 細川内閣発足。
1993813  日本銀行円売り独マルク買い介入実施→ ドル円以外では初めて。
1993813日の週 ドル円104.98円を高値に10180円まで下落、10185円で越週。
1993819  NY連銀、ドル円で円売り市場介入を実施、106.75円まで急落。
1993820日の週 ドル円100.40円まで下落、介入により106.75円まで上昇、104.30円で越週。


1993年の後半の半年間のドル円相場は、8月の安値100.40円を底値に円高も収まり、大台の100円を維持し103円台から徐々に底値を切り上げ、一時11207円まで上昇し、1993年は11185円でこの年を終えました。8月の介入効果や、ベンツェン米財務長官が630日に日本政府に突きつけた「円高圧力停止の見返りに日本に景気刺激策を要求」が、日本の政権政党の支持率低下という政局混迷に、ある一定期間猶予を与えたとの観測も流れていました。

2014年5月11日日曜日

為替の大福餅 ドル円の過去を散策 その13 ≪円当時の最高値の流れ、その2≫

120円を割れ、TVで見たインタビューでは確か、ドル急落に関しての記者からの質問に対し笑いながら、片目を閉じたことを記憶しています。110円台に入り円高が進む中でも、ドル安容認発言を繰り返し、巨額の財政赤字を支えるために米国債を大量購入して「ザ・セイホ」と呼ばれていた生保各社は保有する米国債の為替含み損を抱えながら、売却すれば損失が表面化するため、売りたくても売れないジレンマに陥っていくのでした。また、悪いことに(会計上は良いことですが)19926月には外国為替等審議会で先物為替の決済延長の原則禁止が発表されたのでした。

当時のクリントン米大統領は、第一に日本との貿易赤字削減交渉と、第二にヘッジファンドに関する調査を実施しました。1993416日の ワシントン・日米首脳会談でクリントン大統領は「貿易不均衡の是正には円高が有効」と発言、その後、クリントン大統領の経済コンサルタントは日本政府による市場開放の遅さに業を煮やし、19942月に円高・ドル安誘導をクリントン政権に提案し、従来の自動車・電機・通信業界と同様に、日本製品の輸入価格を吊り上げることを目的に、円高を容認する方針はじまり、115円台の壁を割り込み、その後100円台まで円高への道が作られました。一方のヘッジファンドに関する調査は、ウォール街の反対にあい、政治的なダメージを追うことになります。

円高・ドル安への誘導はドルの価値そのものを低下させることを意味し、自国通貨の価値の低落はウォール街などの国際金融市場に歓迎されず、ドル高を予想した証券会社は損失をこうむることになります。これを意識してかは不明ですが1993427日にはNY連銀は111円台を守るべく自己勘定で円売り・ドル買い介入を実施したのですが、ご存知の通りお付き合い程度の数億ドルの介入では効果は乏しく、円高の進行が続いていきます。しかし、これは後のルービン氏が財務長官に就任することで大きくドル高へ流れを変えることになるのですが、それはまだ先のことです。

当時の市場ではアジア諸国の中央銀行がドル買いを増やしているとか、OPEC諸国が石油価格のドル決済の変更を考えているとか、ヨーロッパ諸国は統一通貨ユーロの準備を着々と進め、日本政府が、米国債を売却するのではとのウワサも飛び交っていました。


ドル円は後に、100円を割り込み、時価会計の導入で「ザ・セイホ」のドル売りが始まり、膨大な為替差損を計上、日本の生保損保業界は苦難の道を歩むことになるのです。

2014年5月2日金曜日

為替の大福餅 ドル円の過去を散策 その12 ≪円当時最高値の流れ≫

「円最高値の流れ」

1992年は、歴史に残るイングランド銀行とソロスファンドの戦いとなる「ポンド危機」がありました。19929420100から始まったポンドの下落局面で、ソロスファンドはポンド売りを仕掛け、イングランド銀行による執拗なポンド買い介入を嘲り笑うかのように199325日には14063まで下落したのでした。イングランド銀行は1992916日に一日に公定歩合を、10%から12%へと2度引き上げ、最終的には年15%まで通貨ポンドの防衛のために公定歩合を引き上げ、最終的に英国はEMSから一時離脱を決定したのもこの時代です。

為替の教科書にも出てくるこのポンド危機は、イギリスがEMS(欧州通貨制度)に加盟していることで、他の加盟国通貨の変動率を上下一定枠に固定するというルールを守ることが義務付けられていました。当時のイギリス経済は悪化し、この制度で変動幅が固定されていたため、為替レートが過大評価され、かろうじて水準を維持していたのです。ソロスファンドはこの間隙を狙い、総額100億ポンドとも言われているポンド売りを行い、最終的には20億ドルの利益を得たとも言われていますが、詳しくはユーロ誕生の章でご説明します。


さて、話を戻しますが、ドル円は19904月の160.35円をピークに、本邦機関投資家のバブル崩壊による対外資産引き上げによる円高や、1991年には140円台でのドル売り協調介入により上値は重くなり、1992年には123円~135円まで円高が進んでいました。日米強調介入による円高でも120円の大台は割り込むことはできず下げ止まっていましたが、対日強硬派の急先鋒のベンツェン財務長官の発言で、流れは一変したのです。1993219日にベンツェン財務長官は「一層の円高が望ましい」と発言、19932月には121円台でドル売り介入実施したのでした。

2014年4月30日水曜日

為替の大福餅 ドル円の過去を散策 その11 ≪総量規制≫



「総量規制」
話を戻しますが、住宅金融専門会社(住専)の破綻やゼネコンの倒産が、大手金融機関の破綻と連鎖し、日本経済は瀕死の重傷を負うことになるのですが、1988年にBIS(国際決済銀行)が銀行の健全性を確保するために国際的な自己資本比率規制、いわゆるBIS規制を制定し、日本では1990年4月に大蔵省銀行局庁通達「総量規制」によってから実施されました。

不動産向け貸出しを抑制する規制を指すために作られた「総量規制」とは具体的に、「金融機関の不動産関連融資残高の前年同期比増加率を、全融資残高の増加率の範囲内にとどめること」「設や不動産、およびこれらの関連ノンバンク向け融資の実行状況を報告すること」を義務付けたのですが、住専は総量規制の対象外でした。住専は不動産関連融資を積極化させ、金融機関に代わり不動産投資への資金を供給し続け、それがより深刻な破綻への道を歩むことになるのですが、当時の銀行は住専に融資を肩代わりさせることしか考えていなかったようです。

実際には、この総量規制により地価は3ヶ月間でなんと、約30%の急落し、借り入れの担保としていた価値が低下することで、不動産や株を売却せざるを得なくなり、バブル崩壊の引き金を引いたのです。

2014年4月28日月曜日

為替の大福餅 ドル円の過去を散策 その10 ≪歴史的なバブル崩壊≫

歴史的なバブル崩壊

188612月から199112月まで続いたバブルが崩壊したことにより、1991年から2003年の間に日本の資産がなんと1389兆円消滅したのです。日本国内の株や土地の損失額は、家計部門では623兆円、企業466兆円、金融機関89兆円、一般政府189兆円、その他など巨額な金額となり、株や土地の含み益を元手に再投資していた、株式市場や土地価格は壊滅的打撃を受け、直接には騰貴に手を染めていない一般個人の貴重な財産は大幅に減少したのでした。

為替デーラーの仲間でも、バブルの不動産価格の高騰にうまく乗り、東京近郊でマンションを幾つも購入し、それを担保に金融機関から融資を受け、他の不動産に投資し膨大な利益を得て、頻繁に銀座のクラブへ通っていた人が何人いましたが、多くはバブルにより道を外し、バブルの崩壊で含み益を吐き出し、中には損失を抱え行方不明のも何人かいました。

相場観が悪いとでも言うのか、運命とでも言うのか、私も1990年に東京近郊で土地を購入し家を新築しました。なかなか良い物件が無く、あっても抽選とかで購入ができない時期が1年ほど続き、その間に土地の坪単価は70万円、80万円、ついには100万円まで上昇、ようやくそこで取引が成立できたのですが、まさにバブル崩壊直前のことです。ちなみに現在の坪単価は半分以下の悲惨な状況です。

残念ながら、今現在も同じ場所に住み、不良債権を抱えながら、住宅ローンの返済を行っていますが、ピーク当時、不動産の売却を進めてくれる友人がいました。Mr.Tで、彼はシンガポール人で、私が為替取引を学んだ先生です。為替取引は年齢に関係なく、当時は日本以外の国では珍しいことではありませんでしたが、彼は当時25歳の若さで大手米銀のシンガポール支店で国際金融業務の最高責任者という要職を務めていました。その後退社し、個人のファンドマネジャーとして、インドネシア富豪の資金運用を行い、当時個人では購入することが難しいシンガポールで一戸建ての大邸宅を購入し、現在も活躍しています。

1990年夏のことです、彼は電話で「俺は全ての不動産を売却して、アパートを借りることにするよ、君も早く不動産を売却したほういいよ」とアドバイスを受けました。さっそく家族会議を招集し、「長い間住むのだから、多少下がってもいいじゃないの」で売却は中止に決着、人生の中で本当に悔やまれる選択となりました。


2014年4月13日日曜日

為替の大福餅 ドル円の過去を散策 その9 ≪資産バブルとバブル崩壊への道≫

「資産バブルとバブル崩壊への道」

19891229日の大納会で、日経平均株価は38,915円と史上最高値を付け、不動産価格も1990年まで上昇し、「日の出る国」の日本は果てしない繁栄と、永遠と続く株価と不動産価格の上昇を誰も信じて疑いませんでした。

歴史とは面白いもので、この年には色々な出来事がありました。当時の政局は、宇野総理が女性スキャンダルで辞任に追いこまれ、海部総理へと引き継がれ、1月には昭和天皇が崩御され、64年間続いた昭和から平成へと年号が変り、120日には、ブッシュ大統領が第41代大統領に就任しました。63日には中国で「天安門事件」が勃発し、武力解決による抑圧で数千人が死亡、119日にはベルリンの壁が崩壊し、翌1990年には東西ドイツが統合し、消費税の導入が始まり、リクルート事件ものこの年にありました。

不謹慎ながら、当時のドル円相場は天皇陛下の病状に一喜一憂する動きが続き、刻々と発表される血圧や病状の報道にドル円が売られたり、買われたり、救急車が皇居に入ると一斉にドル買いとなったものでした。病状の悪化をいち早く探るために、部下を皇居の見える窓に立たせ、何か動きがあったら直ぐに知らせるように手配りするなど、今になって考えると可笑しなことを真顔でやっていました。
             
また、天安門事件は今でも思い出したくない事件の一つで、当時金曜日のNY時間の午後4時にドル売りのポジションを作り、午後5時のクローズ時点では約1円程度の利益がでて週を終えたのでした。ところが週末に勃発したこの事件に、とにかくポジションを閉めようと、月曜日の早朝タクシーで会社へ向かい、午前5時ごろにニュージーランド市場で確か2円程度の損でドル円を買い戻し、ポジションを閉じたのですが、何で損をしたのか情けなくなったことを覚えています。NY市場の終値から3円程度損をし、ドル高でしか買えなかったのですが、相場とは不思議なもので、東京市場の朝一番では実需の売りに、当初のコスト水準までドルは下がり、直後に急速なドル高が始まった記憶があります。

話を戻しますが、日本の資産バブルの時期は一般的に198612月~19912月の約4年間と言われ、この間に日経平均株価は「1986121日の18,307.98円」から始まり、「19891229日に史上最高値38,915.87円」まで急騰、その後1年数カ月足らずの「199121日には23,156.70 円」まで暴落、まさに歴史に残る大変動でした。

不動産価格の総額が東京都区内の値段と米国本土と同額であったことがあり、米国の友人のデーラーに冗談半分に電話で「交換するか?」と話を持ちかけると、「お前は馬鹿か!」なんで事を言われた記憶があります。それほど歪な不動産価格の高騰が続いたのでした。

この株価の上昇と、土地高騰によるキャピタルゲインが膨張し、国内から割安な海外へ資金移動が始まったのです。日本の企業が、F1チームを買収したり、三菱地所がNYマンハッタン5番街にある「ロックフェラーセンタービル」を約2000億円で買収したり、ゴッホやルノーなどの有名な画家の絵を購入したものでした。1990年にオークションで日本人が落札した、モネの「ヴェトゥイユの庭」は約7.5億で、後のバブル崩壊後の売却価格は約3.3億とも言われています。このバブル期に日本が輸入した絵画の総額は1兆円ともいわれています。

リクルート事件を発端に行き過ぎた地価の高騰を非難する声が出始め、土地基本法が制定され、転売による利益追求を防ぐ措置が実施されました。1990年には金融機関から不動産業界への資金流入にストップをかける、大蔵省の局長通達と言う、よくわからない動産融資総量規制が制定されました。バブル期に過度な不動産融資を行なった、北海道拓殖銀行、日本長期信用銀行、日本債券信用銀や、山一證券が破綻に向かい、1991年に始まった湾岸戦争勃発による石油が高騰により、円高相場と低金利、原油安が終焉し、円安、株安、債権安になってしまいました。直接投資の資金が海外に流出したことも要因となり、ドル円は160円台まで円安が加速しはじめたのです。


一般に不況感が出始めるのは1993年ごろで、土地の買い手がいなくなり、土地の値段が下がり始め、投げ売りが始まり、土地での損は株を売って穴埋めしようと、株を売る人も急増し、株価も下落、投機ブームはついに終わりを告げました。

2014年4月7日月曜日

為替の大福餅 ドル円の過去を散策 その8 ≪ブラックマンデー≫

「ブラックマンデー」

1987年のアメリカの貿易赤字は1703億ドルと史上最高額を更新し、経常収支も1540億ドルの赤字を記録しました。1987年末のアメリカの対外純債務額は3,682億ドルの水準まで拡大したことがブラックマンデーへ進んで行く背景にあります。

歴史的出来事には色々な要因が重なるものです。インフレファイターとして決して妥協しないドイツ中銀(ブンデスバンク)の公定歩合引き上げと、通貨の番人と言われ絶対的な信任を得ていたボルカーFRB議長の退任と、着任して間もないグリーンスパン米FRB議長が、ドル防衛政策として公定歩合を5.5%から6.0%引き上げたことで、市場への不安感が広まったのでした。

直接的な引き金は、1014日発表された8月の貿易赤字額が1568300万ドルと、予想を大幅に上回る赤字額に拡大したことでウォール街の不安心理はピークに達し、19871019日(月曜日)にNYダウ平均株価は2,247ドルから1739ドルと一日で508ドル(-22.6%)と歴史的株価の大暴落の「ブラックマンデー」が始まったのです

その余波は翌日の東京市場へも及び、1020日(火曜日)の日経平均株価は25,747円から21910円と-3,836円(-14.9%)へと歴史に残る暴落となりました。私はその瞬間をデーリングルームで見ていましたが、株価や債券価格、為替レートなどが表示されているデーリングボードと呼ばれていた壁一面に設置された大画面には、午前9時の株取引開始と同時にほとんどの株価が一斉にマイナス幅を拡大させ、次々にストップ安となった赤い光に恐怖感を覚えたことが思い出されます。

米国から始まったこの株価の下落は、アジア各国の市場や、ヨーロッパ市場へと波及し、世界全体の株価下落による損失額は14兆ドルともいわれています。株価の下落を助長させたのは、当時流行し始めたコンピューターを駆使したシステム売買の手法で、機関投資家が先物取引で株価下落により自動的に売りを実行し、それが現物市場の株価を下げ、相乗的な株価の下落へと繋がったのでした。

グリーンスパン米FRB議長は株価暴落の対応策として市場に十分な安定的資金の供給を行い、信用不安の打ち消しに務め、大企業や証券会社と個別折衝し、積極的な株式の購入を即座に実施、翌日20日のNYダウ平均株価は一転して102ドル上昇し、21日には186ドルと大幅に上昇したことで、市場は落ち着きを取り戻したのでした。また、経営危機に陥ったコンチネンタルイリノイ銀行の子会社など、超法規的な救済策をFRBが直接指示したことから市場に安心感が広がり、株価は徐々に回復するのですが、元の水準まで値を戻すのに2年の歳月を必要としました。

当時は大手米銀で仕事をしていましたが、コンチネンタルイリノイ銀行への信用不安が発生したときには、邦銀はもとより欧州系の銀行は無担保で貸し出しを行う信用供与枠を極端に縮小するか、または停止させ、日々の資金調達や、為替取引の実施に困難をきたしました。このような状態のときに米国本店よりコンチネンタルイリノイ銀行に対してドル貸し出しや為替取引は無制限に行うようにとの指示があり、通常業務を遂行できた記憶があります。これらも当然FRBの指導に基づく決定ではないかと、いまさらながら思い出されます。

翌日1021日(水曜日)の日経平均株価は2037.32円(+13.24%)まで上昇し、その後半年ほどで元の水準まで戻し、世界の中で日本経済の底堅さを印象付けたのでした。このためドル円の為替レートは140円台、さらには121円台まで円高が進むことになるのです。一方、ヨーロッパ各国も株価対策として、政策金利・公定歩合の引き下げを実施し、時間的な差はあるものの徐々に元の水準を回復しました。


他国に先駆けて株価の回復を実現させ、日本経済の底堅さが証明できたことで、さらに株価が続伸し、資金が不動産へも移り地価の高騰により含み益が急増し、円高へ動きました。しかし、日本企業は円高対策として生産拠点を海外に求め、バブルで高騰している日本資産運用をさけ、割安な海外に目を向け、海外不動産・企業買収が急増し、機関投資家の積極的な外債購入でドル円が160円台まで急騰、後のバブルの崩壊と言う悲劇が始まるのです。

2014年4月3日木曜日

為替の大福餅 ドル円の過去を散策 その7 ≪ルーブル合意の失敗≫

「ルーブル合意の失敗」

1987年インフレファイターとして世界の中央銀行に冠するドイツ・ブンデスバンクドイツ中央銀行が、米国の金利据え置き要請を無視し、自国のインフレ抑制のために政策金利の引き上げを決定したことで、金融市場は大きな変動を迎えました。

グリーンスパン米FRB議長はドル防衛で1987818日のFOMCでは政策金利を引き下げるところ、据え置きを決定したのですが、ドル安が続き、ついに、93日に臨時会議を招集しドル価格維持を目的に利上げを決定しました。この米国のドル防衛による金利引き上げと、ドイツの利上げが結果的にブラックマンデーを引き起こす直接的な引き金になったのです。

19871019日の月曜日に歴史的にも有名な米国の株価大暴落の「ブラックマンデー」が始まったのでした